わが青春想い出の記 忘れ得ぬ人 2

        二 
    
二学期が始まった。
 夏休み中の八月、市町村合併が行われた。この合併でこれまでS町のS小学校区だったU村はA村のA小学校区に編成され、生徒も転校してきた。五年生には十三人が加わってきた。ヨーコ(洋子)もその中にいた。クラスの編成も行われ、自分は一組、洋子は二組になった。


 洋子が編入して来て三、四日が過ぎた頃から、クラスの中で「ペコチャン」という言葉がさかんに使われていた。最初、何のことだかわからなかったが、洋子のニックネームだった。そう言えばオカッパで目が大きく、まつ毛は長く上に向ってくるりとカールしていてパッチリと開いている。初めて会ったとき、どこかで見たような気がするがなかなか思い出せなかったのが、このペコチャンだったことに気づいた。


 洋子は編入してきたその日から人気者になっていた。オテンバで、鉄棒の上を歩いて見せたり、逆上がりも簡単に何回もくるくる回ったり、逆立ち歩きも男の子顔負けの出来で、三、四十メートルも簡単に歩いていた。だから彼女のいるところにはいつも人が集まっていた。


 駆け足も早かった。クラスの中でも、「智と二組のペコチャンとどちらが速いだろうか」、など、何かにつけ洋子と比較されていた。それを聞くまでもなく、洋子と初めて会った日、買ったばかりの雑誌を先に読まれたり、それを取り上げると「その先を知っているよ」と言われた時以来、イトコとはいえ、どこかで「仕返ししてやろう」と心に決めていたからである。しかしその決着をつける機会はこなかった。


 六年生になって、たまたま同じクラスになったが、男と女とでは相手が違う。陸上競技の勝負は出来なかったが、新たな競争種目が加わった。勉強だった。


 その年の六月、五・六年生を対象に県内全小学校で学力一斉テストが行われた。テストは漢字の読み、書きだけのものだったが、テストを実施し、監視する先生も他校の先生で、当日の生徒のクラスと席順まで替えられた。


テストが終って七、八日が過ぎた頃、結果が発表され、百点を取った生徒は「学校の名誉になった」として、全校生徒が並ぶ朝礼の場でその名前が読み上げられ、校長先生から褒美が授与された。その中に洋子も入っていた。自分は呼ばれなかった。百点が取れなかったからだ。


 理由はこうである。早く書き終えた自分は、時間が来るまでとぼんやりしていた。すると後ろの席で「えんそう」という声がかすかに聞こえた。自分は煙草のふりがなとして「たばこ」と書いてあったが、その「たばこ」の文字を急いで消しゴムで消し、「えんそう」と書き替えて提出した。これが百点を取れなかった原因だった。
以来、「煙草」の文字は今でも忘れることが出来ない文字となったばかりか、煙草の文字を見るとき、洋子と顔が会うとき、洋子に対するコンプレックスが頭をもたげるのはその煙草の文字が頭にあるからだ。
中学になると男女別学となり、高校でも別々の学校へと進学したため、話し合うことはおろか逢うことさえ途絶えていた。

わが青春想い出の記 忘れ得ぬ人 1

  一  出会い


その日、自分が馬の餌用草を刈り集めて帰ってくると、家の中から賑やかな笑い声が聞えてきた。
―お客さんかなー。
玄関を見ると、見慣れない靴が二足べてある。靴は女性のものらしく、一足は大人の靴で、もう一足は形・色からして子供のものらしい。お客は二人連れでそれも女の客らしい。
「智か」
母親の敏子が、刈ってきた草を置き、馬に水を飲ませるため、馬小屋から馬を連れ出そうとする自分を呼んだ。
「こちらに来て挨拶しなさい」。
自分は気が重かった。昔から引っ込み思案で、恥ずかしがり屋であることを自認している。学校のクラスでも誰とでも仲良くなれるタイプではない。本当に気心許せる友達は三、四人もおればそれで十分と思う人間であった。


初対面の人に、そつない挨拶をするのが苦手だったし、緊張を隠すために無理して愛想良く振り舞う自分を、客観的に見るのも嫌だった。だからといって逃げるわけにもゆかない。呼ばれた応接間に行った。


応接間には、母親の敏子と、見知らぬ女性二人が向かい合って座っていた。母親くらいの年令でやや太り気味。もう一人は、小学校六年生か中学生くらい。黒い髪の毛を短く刈り、オカッパ髪である。目が大きく、チャーミングなお嬢さんである。お嬢さんというよりからだつきは大人にも見える人である。
「えっー、この子が智さんねえ、まあー・・・」、
母親らしい女性が、口と目を大きく開けて自分を見上げた。
「大きくなったわねえー。もう馬の世話も出来るようになったの?」。
その女性は、自分の頭のてっぺんから足先まで見て、「本当に大きくなったのねえー。しばらく見ないうちに」と、ジロジロ見ながら驚いている。


自分は、相手が誰だか分らない女性に、頭のテッペンから足先まで、ジロジロ見られて照れくさいやら恥かしくなり、早くその場から逃げ出したい気になった。そして母親の鈍感さにも腹が立ってきた。
 母親は、その女性の驚きぶりを面白がって見ているようで、紹介もしてくれない。母親がお茶を入れ代えるため、台所に立っている間も次々と質問をかけてくる。
「五年生でしたわよねー。学校は面白い?、クラスは何人?、いま学校ではどんなことがあるの?。智さんの得意な学科は何?」。
執拗とも思われるほど、次々と質問を浴びせてきた。


「国語です」
自分は応えた。そしてすぐさま後悔した。相手が誰かもわからないのに、いきなり得意な学科を聞かれ、それに素直に応えてしまった自分に恥ずかしさも覚えていた。そして、庭につないだままにしてある馬に気づき、失啓しようとからだの向きを変えると、その気持ちを察したのか
「あ、あ、ごめんなさい。智さん、びっくりするわよねー、いきなりいろいろと聞いたりして・・・」。
母親らしい女性は、「座って・・・」と手招きした。肌色白く上品な感じのする婦人である。
自分は、彼女の娘らしい女性と向かい合わせの形で座った。娘らしい女性は、顔が丸くて色白。まつ毛が長く上向きにカールしていて目が大きく、パッチリと開いて可愛らしい。その娘、さっきから一言も話さず、こちらの話ばかり聞いている。そして時々、こちらをジーット見つめている。自分は頬が火照っているのがわかった、そして、大きくまんまるい目で、ジーット見られるたびにどこかで見たような気がするがなかなか思い出せない。


「私はね、佐々岡シゲ子。智さんのお母さんの姪。つまり智さんのお母さんと私の母は姉妹。で、この子は私の娘でヨーコ。だから、智さんとは又イトコ同士になるわね。イトコって知ってる? あ、あ、もちろん知っているわよねえー。私ったら、赤ちゃんのころの智の面影がちらついて、つい子供扱いしちゃって。ごめんなさいね」。シゲ子はそう言って肩をすくめた。
母に姪がおり、離れた町に住んでいることは聞いたことがある。しかし、戦争やら戦後の混乱で、会うこともなければ行き来もなかった。ましてや、ヨーコと呼ばれる娘とは通う学校も違うのだから知る由もなかった。イトコ同士でありながら今日が初対面となったのである。ヨーコと言われた娘ははじめて口をきき、
「ヨーコデース。五年生デース」と、挨拶した。
自分はびっくりした。はじめて見たとき、中学生か一歩譲っても六年生と想像していた人が五年生。自分と同学年と聞いたからだ。背が大きく、よく見ると顔立ちはまだ幼な顔をしているが、からだつき、態度は大人に負けないくらい堂々としていたからだ。それに較べて何と自分は幼稚なのだろう。自分の幼稚さをさらけだしたような気持ちになり、ますます恥ずかしくなった。


「智(さとし)です。」
自分は緊張して頭をさげた。
挨拶も済み自己紹介も済んだ今、「仕事が残っているから」と、席を外したければ、それもよかったのだが、ヨーコの存在には席を離させない何かがあった。何か話したいような、何か聞きたいような大きな目、そして潤んでいるようにも見える黒い瞳。その大きく、クリッーと開いた目を見るとどこかで見たような気がしてならない。考えれば考えるほどなかなか思い出せなくなる。
母親の敏子が茶菓を持って現れた。それを機に自分は庭につないであった馬を引き連れ、裏の沼まで水飲ませに行った。
沼は家のすぐ裏手にあった。距離にして二百メートルたらずのところである。馬に水を飲ませてからゆっくり戻ったとしても、三十分もあれば戻れる距離だ。しかし、その日はお客もあり、そのお客が帰った後に戻った方が何も聴かれずに済むと思い、一時間近く遊んでから戻った。


 お客はまだいた。しかも前よりも一層賑やかに話したり笑ったりしている。
ヨーコは座敷まで上がり込み、腹ばいになって自分が今日、友達から譲り受けてきたばかりの「少年クラブ」を読んでいた。二カ月遅れの月刊誌ではあるが、自分にとっては新刊本と同じ。今日、急いで馬の草を刈り、水まで飲ませたのも、誰からも文句を言われず、ゆっくりこの少年クラブを読むためであった。それを自分より先に他人が読んでいるのを見て少し腹が立った。
「今日買ってきたばかりだから汚さないで・・・・」つい本音を言ってしまった。
「・・・・・」
ヨーコは黙っていた。
自分はヨーコの前まで行き、その雑誌を取り上げた。


ヨーコは唖然としながら、「ケチねー。その本は先月の本で汚れたり、途中のページは破れているよ」。
「知ってるよ」。自分も負けずに言い返した。
「今日、買って来たばかりと言ったでしょうに・・・・?」。
「そうだよ」。
「だって、その雑誌二カ月前のものだよ」。
「知ってるよ、それくらい」。
「私、この続きの本読んだんだ。そして話の続きがどうなったかも知っているよ」、
と、言い捨てながら応接間へ去った。


自分はこの人は自分が知らないところまで知っている。はじめてコンプレックスを感じた瞬間だった。同時に、この一言で自分がこれまで持っていたプライドが一瞬にして吹っ飛んでしまった。悲しかった。そして腹が立った。自分は皆がいる応接間には行かなかった。


応接間では暫く話し込んだ後、帰りの支度をはじめる気配がした。自分はやれやれと思った。ところがそのまま帰るのかと思っていると、シゲ子という伯母さんとヨーコが自分のところへきて、
「智さん、二学期からヨーコも同じ小学校になるから仲良くしてね」
と、言った。
自分は何のことか分らなかった。転校して来るのかな、とその時は思った。

わが青春思い出の記 忘れ得ぬ人

10年をひと昔というならば、これから書く「わが青春思い出の記」はそれからさらに前の話である。
ひと口で言うと、人を愛するということは幸せである。とは言っても、人生には個々人によっていろいろとあるから、恋をすることが幸か不幸かは一概に言うことはできない。しかし、実際に恋をしている者にとって、人を愛し、恋をすると言うことは人生最大の幸せであると思う。自分は恋をした。そして人生で最高の幸福の頂点に立っていた。寝ても覚めても、洋子のことを忘れることができなかったし、自分の独身主義は、洋子との再会によって完全に消滅していたからだ。
 しかし、この結末がこうなろうとは、神ならぬ身にしても、あまりにも予測できないことであった。